『鬱憤』の川に立ち眺める水流

どうも、一万七千字の女です。

r2187.hatenablog.jp

以前これだけ長文書き連ねるほどハマった作品である『鬱憤』の再演、観てきました!

 

初演での登場人物は16人と聞いていたので、新しい登場人物たくさん出てきたら一度で覚えられるかな……と心配していたんですが、再演の大枠はグレショー版とほぼ変わらず、グレショー版の「同棲(古崎佑理/由梨・優弥)」「成金学生(村上・峠・清水)」「書店(工藤・古崎・清水)」に「空き巣(土田和也・海崎すずめ・ユズハ)」が増えた4パートでの劇でした。わかりやすさも新鮮さもあって楽しかった!

第一印象的な感想としては、「これが本物か~」という感覚がありつつ、グレショー版よりもコミカルさ(笑いどころ)が多かったような気がする。近くの席にすごく声出して笑ってる方がいて、みんなで観てるから面白いシーンがより面白く感じる、みたいな、環境の相乗効果みたいなものもあったのかも。
もちろん大前提として『鬱憤』という物語であることに変わりはないので、切なさやもどかしさ、結局のところのどうしようもなさ、みたいなものは変わらずそこにある。(グレショー版の時にも書いてたけど)登場人物たちが置かれているのは結構しんどい状況ばかりで、ウイルスによってもたらされた悪い変化の結果でしかなく思える中に生きているのに、なぜか少し晴れやかな気持ちで生きて行こうと希望が見える、そんな不思議な作品。


グレショー放送時(2〜3月)と今では、世間の感覚は大きく変わったように思う。5月に5類移行となったことを境に、なんとなくコロナ禍は“終わった”とされているような雰囲気。でも私の中でこの終わりは、わかるけど、わからないまんま。わからないというか、納得できないことを納得できないまま忘れることを求められているような感覚というか。
結局何だったのか、結局これで正しかったのか? 誰にも正解は出せないし、誰もが自分なりに落としどころを見つけていくしかない。
グレショー版を観ている当時、『鬱憤』は「今を生きる私たちの物語」という感覚がどこかにあった。そして9月(観劇当時)の今、私はどこかこの作品に対して「過去の私たち」のように感じて、それに気付いてちょっとゾッとした。こんなにすぐに忘れてしまうものなのかと。
いつまでもあんなコロナ禍のままでいいと思ってたわけでもないけど、なぜか終わったと認識することに引け目みたいな感情を持っていて、そのずるさみたいなものに気付いて、うわぁ、となっている。

この観る時期による感覚の違いの他にも、グレショー版と演じる人が違って性別が変わっている登場人物も多かったことで、自分の中のジェンダー観についてもいろいろ考えさせられました(後程書きます)。

ということで改めて本編の感想をなるべく時系列で。(まさかのここまで前置き? 既に1000字オーバー)
きっとまた長くなるので、各々読みたいところだけ読んでいただけたらと思います。
(元々グレショー版が好きで何度も何度も観た上で今回の再演を観たので、Aぇの6人が発した台詞や声や表情が脳内でリンクしてしまって、そことの比較のような感想になってしまうのは申し訳ないです。あとそれぞれパートごとの解釈?みたいなものはグレショー版の感想でたくさん書いたので割愛してます。)

 


同棲中の由梨と優弥。糸電話を提案し「熱出てきちゃった」と告げる恋人。
結末を知ってしまってから観ると、同じ家の光が消える瞬間をこの時は共有できていた、同じ場所から眺めていられた、そのことだけでももうちょっと切なくなってしまう。
楽曲『糸電話』、由梨以外は2人ペアでお互いを支え合ってるようなダンスをしている中、由梨だけがひとり糸電話の糸に巻かれながら歩いていて、“一緒に暮らしている人がいることだけが救いだった”中での孤独、唯一の救いが離れていく不安と不満が際立って見えた。(グレショーでも再現はされてたけど周りの人数が増えたことで1人でいる由梨が目立ったような気がする。)


場面変わって村上宅を訪れる3人。
宇留野花さん演じる峠は、大晴くんが演じていた峠よりも落ち着いていて計算高い印象。清水もそうだけど、再演版はみんな情緒が安定している(笑) 村上くんは正門くんver.より優しくて悪気ない感じがしたし、それゆえにいじめられそ~~!!!感が強かった。
グレショー版よりも父親との関係性が少しだけ明確に描かれていた村上くん。スイカは野菜です。


場面変わる時の「転換!」が鳴り響いていたのはここでしたっけ?(戯曲買ってないのがバレる、脚本形式のものを読むのが苦手なんですすみません)
感想書くにあたってグレショー時の藤井さんのnote(3月THE GREATEST SHOW-NEN Aぇ!group×幻灯劇場 『鬱憤』|ふじいそうたろう)を読み返していたら、

もっとカットされるかなと思っていましたが、カット箇所は一箇所のみでした。カットされたのは場面転換のシーンで「清水君が 〈転換!〉と叫び音楽に合わせて好き勝手踊りながら、工藤さんにエプロンを着させて貰う」というシーンです。僕は好きなシーンですが、テレビでは絶対にいらないシーンなのでカットして正解です。幻灯版にもそんなシーンはないんです。ただ単にこじけんが好き勝手に踊っている姿を見たいという欲望がそんなシーンを生み出してしまったのです。

という文言があって、再演でやってたやつこれか!とちょっと笑いました。事前に読んどきゃよかった。
あの「転換!」だけ急に、『鬱憤』という劇中のフィクション世界に「これは劇である」という現実が混ざるので、こちらとあちらの境目が曖昧になって地続きに行ったり来たりするみたいで面白いなと思った。


そして書店。
ひとつの大きなダンボールからマトリョーシカのように小さい箱がどんどん出てくるのを「???」って開けていく由梨ちゃんなんだか可愛かった。結局中身なんてなかったのかな、大きく見える問題も元は小さいものでしかないっていう比喩かな?(←勘繰り)
ずっと思ってたんだけど、人数少ない方を選んだ清水は「少数のために大多数を犠牲に」してはいない。自分が助かる方を選んだときは犠牲にしてたけど。そうやってころころと変わる選択、正解のない問い。どちらを選んでも犠牲の出る問題。難しいねぇ、人生。


書店から帰宅した由梨で繋がって、2年前の同棲中のシーンへ。
月の光が届くまでにはラグがある。遠くにある星の光が消えたことにはなかなか気付けない。家の光が消えるのも、星の光が消えるのも、見ていたのは由梨だけだった。ひとりにしないであげて、と思うけど、ひとりにしたって死なせるよりはいい、という優弥の愛も、きっと近くにいたかったはずなのに優弥の意思を尊重して糸電話に付き合ってた由梨も、どっちも優しくて儚い愛だな。


ここでおそらく空き巣パート。(たぶん……。順番はちょっと曖昧です)
とある家に空き巣に入ろうとする土田とすずめ。
ピッキング担当・計画的・真面目っぽい性格の土田(本職は鍵屋)、よく喋る映画好きのすずめ。偶然同じ家に同じタイミングで空き巣に入ったことで出会い、相棒のような関係になった2人。
リモートワークが推奨されて、空き巣である自分たちにとっては「商売あがったりだ」と話すすずめ。「一部の職業には補償があって、私たちにはなにもない、差別だよね」。おもろ。(こういう、犯罪者なんだけど憎めないキャラクター、フィクションの醍醐味~!!!)
そして久々に思い出す「補償」という言葉。あの頃の感覚。なかなか開かない鍵のピッキング作業、予定の時間が過ぎていることを気にする土田。照り返しがひどいから布をくれと言う土田に投げられたのがタイム風呂敷柄だったのこういう遊び心最高(とか思ってたらさ〜〜!あとから書くけどさ〜!※1)
やっと鍵が開いてドアを開けると、中にはその家に暮らす女の子・ユズハがいて、「どちら様?」に「サンタ」と答える2人。ホームアローン
(空き巣パートすごくテンポよく面白いシーンだったけど私の文章力ではうまくあらすじを伝えられぬです。)
土田を演じる藤井さんの声がよすぎた……。


ここのパート転換がランボルの歌(??)だっけ?
アフタートークで話題に出たけど、この歌(ラップとダンス)のシーン、観てる時「なんかわからん時間始まったぞ~」って思ってたら、演出の意図として「突然わけわかんないことが始まって終わる」ということだったらしく、本城さんも「わけわかんなくて正解です」とおっしゃってて答え合わせで丸ついたみたいな感覚で嬉しかった。わかんない、という正解もある。あとあのシーンの村上のコサックダンスの印象めちゃくちゃ強かった。
わけわかんなくしたかったからと歌詞もラップのようにならないラップになっていて、本城さんずっと覚えられなくて苦労したとのこと。
この曲と舞台の色合いの印象、しっちゃかめっちゃかでパリピっぽくて、まさに“ありあわせの贅”みたいで、大学生~!っていう感じもしたしどこか禍々しさもあって、怒涛だった。わけわかんない富、すぐ終わる波。←韻踏んでみた


そして儲ける仕組みを語る峠、金持ちになりたい清水、水素水素水素水を配る村上。(ちなみにお父さん、アボガドではなくアボカドです。)
『立つ野は一人』で水素水素水素水が光ってたの綺麗でしたね。綺麗でいいのかね、人を騙してるものなのに。
女性の声が入るとより鋭利になっていいですね。(しかしめっちゃ今更だけどハイトーンボイス末澤とサックスできるリチャと低音ハモリできる晶哉がいるAぇにこの作品と曲がぶつかったのとんでもない奇跡だったんじゃない? なんかめちゃくちゃいいバージョン違いを観れてるんじゃないか我々……)


サイン会の準備をする村上書店。発熱する清水。見て見ぬふりをする工藤。
今考えると工藤さんもトロッコ問題の選択者の立場だったと思うけど、この場合清水という少数を犠牲にして書店という大多数を選んだのか、それとも感染の可能性という大多数を犠牲に自分の仕事という少数を選んだのか?
古崎さんとの言い合い、追い詰められる村上とこれ以上悲しい思いはしたくない古崎、どっちの気持ちもわかってしんどい。でも、この「しんどい」の気持ちがグレショー観てた当時より全然痛みのない、ちょっと考えて頭の中の引き出しからあぁこんな感覚あったなって探して当てはめたみたいなしんどさになっていて、私ももうコロナ禍を過去にしてしまったんだなと思った。


村上宅にて、峠の懺悔、全てを知っていた村上の話。
「昔のお父さんを見てるみたいで……、見てるみたいだった」ここの空白に込められた感情が掴めるようで掴めない。
電話先の清水が村上に「うちの職場来いよ」と話すシーン、あれだけ言い争ったり叱られたりした古崎と工藤のことを「職場の先輩も良い人たちだし」みたいに話してたの、グレショー版では聞き流してたけど今回すごくいいなと思った。清水の人のよさを感じた。


空き巣に入った家で、通報するのしないのとドタバタする3人。
次第にわかってくるユズハとその父親の関係。この家の状態。
私はこの父親に対して直行でネグレクトを疑ってたんですけど、X(旧Twitter)の中で「医療従事者だから帰ってこられないのかも」という推測をされてる方がいて、その可能性を思いつけなかった自分を恥じたよ……。あの頃医療従事者はほんとうに大変だった、ということをもう忘れかけている自分がいる。
ネグレクト(育児放棄)と、やむにやまれぬ事情で帰ってこられない、では、この家庭の中に在る愛情が全然違ってくる。帰ってこないことが子供に感染させないための愛かもしれないし、父親だって人間だから、子供の食事を気にかけられないくらい追い詰められているのかもしれない。ユズハには「お父さんはこの家のものに興味がないの」と思われていたけど、疲れ果てて寝に帰るだけの生活になっているのかもしれない。
「21時には帰ってくる約束」は、土田たちの下調べ情報によると「1度」守られていた。
「1度だけしか守られてない(本当は帰りたくない)」なのか、「1度でも守られた(帰ってきたい気持ちはある)」なのかでは父親の人物像も大きく変わってくる。
……だからといって、ユズハの置かれている状況は変わらない。ユズハの孤独も変わらない。
一人家に残されて、食べ物もなく、寂しく過ごしている時間。怪しい空き巣をサンタクロースだと信じたふりをするほど、誰かとの会話やふれあいに飢えていたのだとすると、10歳でそれを抱えるのはあまりにも悲しい。
長い人生の中で、いつだって“変わるタイミング”とか“自己が作られるタイミング”みたいなのって来得るとは思うんだけど、割合としてやっぱり10代とか子供の頃とか、そういう一定の若い時期に受けた影響や置かれた環境の力って大きい。そういう意味で、このパンデミックの数年間がその時期に当たってしまった子供たちや学生たちのことを思うと、なんとも言えない気持ちになる。だからってどうにもできんけど。


白い布で覆われた、きっとウイルスが蔓延する前の過去の時間。
土田の営む鍵屋にやってくる優弥。友達同士の2人。空き巣の時は「土田(さん)」な土田が優弥に「和也」って呼ばれているだけで関係性を感じることができるの面白い。由梨が「由梨」と「古崎さん」であるように、相手や環境ごとに、同じ人の中でもそれぞれに見せる違う側面がある(清水はどこに行ってもたぶん「清水」っぽい)。
「同棲するから合鍵作ってよ」「あの残したカレーパン食べてくれる彼女?」「最近忙しい?」「ブーム終わっちゃったから副業始めたんだ」「今度3人で映画観に行こう」「やだよわざわざ、ネトフリでいいじゃん」「一緒に観るのがいいんだよ、一緒に笑うのがいい」「ひまになったらな」
コミカルなやりとりの中に、なんの疑いもなく未来の話をしていた優弥という切なさが混じる。
優弥が由梨のことを友達に話している姿を思い浮かべるとなんとも可愛いし、それを覚えている和也もいい。難しい映画が好きで、友達にも「何言いたいのかわかるけど、何言ってんのか全然わかんない」と言われていた優弥。
ほんとはみんなで観るのが好きな優弥が、誰とも会えない中で同棲している彼女すら糸電話で遠ざけて一人で映画観て過ごしてた時間を思うと泣いちゃう。

で、ここのさ~~~!(※1の話)
土田の好きな映画『ワンニャン時空伝』、私はタイトル覚えてなくてたまたま感想ツイで見かけたからなんの気なしに検索かけたら、この映画、時空を超えた冒険の物語で、キャッチコピーが「ぼくたち、また会えるよね。」だと。

ドラえもん のび太のワンニャン時空伝 - Wikipedia

藤井…………!!!!!!←思わず呼び捨てにしちゃったごめんなさい
カーーッ、やってんな〜〜!! この人やばい、すごい。ここでそんなことしてくるのほんとやばい。
なんかさ、感想ブログとか書いちゃってさ、少しでも作品のこと理解できた気になってすみませんでした。所詮我々は藤井颯太郎の掌の上……。
土田の台詞の中にもなんていうかこう“刺してくる”みたいな言葉ってたくさんあったけど、こーーーんなさりげないところにそーーんなストレートボール隠されてることある!? 天才かよ。もう朝ドラやるわ、この人はいつか朝ドラの脚本家になります。いやまじで考察系連ドラやってほしいな〜〜〜トレンドかっさらってAぇとボクらの時代に出てくれ〜!笑


……………はい、感想戻りまして。


空き巣に入った家。
「ひまは突然襲ってくる、頼んでもないのに」と怒りのような感情を出す土田。この「ひま」は、おそらく「空虚」といった意味合いで、優弥の死によって二度と埋められない「ひま」の時間のことかなと思った。
どの映画を観るかでドタバタやりとり(かわいい)があったあと、『ひまになっちゃった』が流れ、光に包まれたような中、3人で映画を観ている姿。
グレショー版ではこの空き巣パートがなかったので、『ひまになっちゃった』は登場人物全員の、ひいてはコロナ禍を生きた者みんなの、広く大勢の気持ちを代弁したような楽曲という印象だったけど、今回はそれがもっと特定の具体的な、例えばユズハの曲であり、土田の曲であるように感じた。「僕を見てよ」がユズハの心の奥にある痛烈な思いだとしたらそれを「どうでもいい」と投げやりにしてしまうまで積み重なった時間と諦めが悲しすぎるし、どうにか救われてほしい。

約束したのとは別の3人ではあるけど、“3人で映画を観ている姿”は和也と由梨と優弥にとってのあったかもしれない未来のようでもあり、男女と子供という組み合わせからなんとなく家族団らんイメージが沸いて、ユズハとその両親だったり、もしかしたら優弥と由梨とその子供という、パンデミックが起きなければ存在したかもしれない未来のようにも見えた。あったかもしれない未来、できたかもしれない家族、でももう永遠に叶わない「3人」。
そして途中でポップコーンを持ってくる優弥が登場する。みんなで一緒に映画を観る、きっと優弥のすきだった時間。あ~なんかこれ書きながら泣きそう。

なんとなく、この『ひまになっちゃった』がいちばんグレショー版との違いがあった曲だと思ってて、再演版(空き巣組)のよさを感じつつ、改めてグレショー版のジャケット抱きしめて踊る佑理とか楽しそうにポップ作る工藤さんとかを思い出したりもしました。ジャケットダンスはまたどっかで何かで観たいな~、切ないけど大好きなシーン。


握手会は行われたけど、結局潰れそうな村上書店。
「特定するなって言ってんだろ!」ってヘッドロックかける工藤さん、末澤ver.でも観たかったな。


そして最後の留守電。
「僕が食べきれなかったカレーパン、食べていいよ」「ご飯食べて元気でいてほしい」「ちょっと残しといてね、帰ったら食べるから」グレショー版から何回も聴いてるのに絶対泣いちゃう。(これ書きながらグレショー版観直してまた泣いた)


最後の『糸電話』と、みんなが出てくるカーテンコール。
最初の由梨のナレーション「病気が流行して4年……」は時間軸としては優弥の死後に回想するようなところからの言葉なので、それがこの最後の「留守電聴いたよ」に繋がって物語が一旦終わり、ここから先また由梨たちの新しい未来がまた始まるんだなと思う。「言葉になる前の言葉 口にするよ次は」、糸電話を置いて、「次」に向かって生きて行く人たち。みんな元気で幸せであれ……。

 

◆アフタートーク
私が観劇してたのは劇作家/演出家の山口茜さんと、藤井さん、本城さんとのトーク回。

藤井さん・本城さんと山口さん、始めましてならぬ二度目ましてだったらしくそれであんな人前でトークするのなかなかのセッティング(笑)
上記ポストにもあるように、山口さんが舞台の感想として「小4くらいまで普通にそこにあった友情を思い出した作品」みたいなことをおっしゃっていて、それを作品だけではなく幻灯劇場のみなさんにも、Aぇ! groupにも感じたとのこと。計算や損得勘定のない、ただ信頼だけがある関係みたいなことかな~? 山口さんは今回の再演の前にグレショー版を観ていたそうで(山口さんがグレショーやる際に過去作品の資料として渡されたのが『鬱憤』だったとのこと)、アフタートーク全体通して結構Aぇ! groupの名前が出たけど、3人ともいい意味でAぇのことを「アイドル」ではなくて、ただ以前一緒に楽しく仕事した素敵な俳優たち、みたいな感覚でお話されてるように感じて、それが勝手にすごく嬉しかった。ちなみに藤井さんは「晶哉(そう呼んでくださいと言われた)」、山口さんは「さのちゃん」呼びだそう。

山口さんがグレショー→再演と観て、佑理(由梨)と優弥について「男女逆かと思ってた」という話から、少しだけその関連のお話も。
藤井さんいわく「グレショーと再演によって男女逆にすることによって見えてくるものがあった」「例えば男だと命令でも女だとお願いになったり、由梨(女性)の台詞を佑理(男性)にするときに、これは女らしい言葉だけど、男でも言えるなというものがあったり、逆に峠の男らしい雰囲気を再演で女性が演じるときも残してたり」とのこと(ざっくりニュアンス)
命令とお願いの違いについてはなるほどなぁと思ったし、男女が違うことで変わるものと変わらないものについていろいろ考えさせられたのでちょっと書きます。

今回2パターンの『鬱憤』を観て、人をその人たらしめるものは何か?と考えてしまった。
同じ人物でありながら、顔も声も違う。特に性別が違えば、生きてきた人生はまるで違う、でも、そんなに変わらないものなのか?
特に自分の中にあるジェンダー観についてとても考えさせられた。

これは妄想混みの個人的な感覚になるけど、グレショー版での工藤と古崎について私は「工藤:新卒から村上書店一筋、古崎:転職組で工藤とは同い年、みたいな関係性」と勝手に想像してて、でも再演版の工藤と古崎には「工藤:主任や店長などの役職者、古崎:正社員だけど役職なし」みたいな先輩後輩感を感じた。これって、同年代の男が複数(多数)同じ職場にいるのは普通でも女だと何かしら意味や役割、そこに配置されている理由を必要とする、みたいな感覚なのかなと思って。工藤が女だと、社畜ゥ!って言われるほど働いてた人物像に対して、末澤さんが演じた男の工藤に比べてより一層「なぜそこまで働くのか」みたいな背景を見出したくもなった。別に女だって普通に働くの好きでいていいはずなのに。無意識に刷り込まれた「男は仕事、女は家庭」みたいな価値観を、私はきっと排除しきれていないんだと思う(これはこれで理に適ってる部分もあるので一概にダメということもないだろうが)。
峠と村上と清水についても、男女3人で友達であることに意味なんてなくていい(理由がなくたって友達でいていい)のに、男同士3人よりも、3人が仲良くなったのは何かそれぞれに友達以上の感情があるんじゃないかって勘繰りたくなったり。それに、例えば男が男に「(君は僕の)ヒーローだ」と言うのと、男が女に「ヒーローだ」と言うのとでは、後者の方が言う側(村上)の中に劣等を強く感じる気がしたりとか、逆に「いじめられ仲間」と自虐的にしょぼんとこぼした峠のシーンは、大晴くん演じる男の峠の方がやり返せないことに劣等を感じてそうだったり。現段階の3人の中に安易に恋愛感情があるとは思わなかったけど、村上と峠がこれからもずっと仲良くしていくのならいつか2人の関係は友達ではないものに変わっていくのかな~とかも思ったし、だけどグレショー版の男同士の村上と峠の時にはそんなこと考えなかった。片方の性別が変わるだけでまた違う発想が生まれるの面白いけど人間のめんどくささかもしれない。
だけど清水だけはまじでいつだって清水だと思えるのがまた不思議で、清水はいい意味で他人が自分の心にいないところがほんとにいい。金持ちになりたい欲はあってもそこに「誰々と比べて」とかそういう感情がなさそうなところ。この物語の救いは清水……!
人をその人たらしめるものは何か?への答えなんてそう簡単に見つかるもんでもないけど、普段、周囲の人なり、推しくらい遠い人なり、“その人”であることを判断してるいくつもの要素の中で、何が自分にとって大切で、何が変わると自分はどう思うのか?対象が自分ならどうか?とか、そういうのを考えてみるのも楽しいかな~って思ってます。


あとめっちゃ今更だけど、あの人物に「峠」って名前すごない!???

峠(とうげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

① 山の坂道を登りつめた最も高い所。 山の上り下りの境目。 転じて、山。 ② 物事の勢いのもっとも盛んな時期や状態。上り下りの境目、最も盛んな時期。

こんなドンピシャな名前ある? すご……。
この物語にこの名前(言葉)が存在することを思うと、空き巣パートの土田の言っていた「一時期ブームがあってそれが終わった」みたいな言葉がまた効いてくるなと。峠を越えたあとに待っているもの。ブームが終わったあとにも生きて行くこと。それは峠や土田だけじゃなく、パンデミックが過ぎ去ったあとの人生を生きる私たちにも通ずるものでもある。



このブログを書こうと劇場でいただいたパンフレットに目を通していて、「病気が流行して四年、というあらすじを“並行する未来”として書いていたのに現実の時間が追い付いてしまった」「フィクションと現実が並走する唯一の年」(意訳)という藤井さんの言葉が載っていた。
それを読んで、作品にするということ、言葉を残すということは現在から過去に触れることであり、過去の方から未来に触れてくることでもあるのかもなと思った。2年後にようやく聴けた糸電話のように、いつかの未来、今が過去になったとき、この今の言葉が、かつて観た作品が、自分を支えてくれるかもしれない。



余談。他の方の感想読んでて気付いたんですが、みなさんあれ肉声だったのすごない? まぁ確かに思い起こせばマイクなんてつけてないように見えたけど、え、ほんとに???? 思わず疑ってしまうような、めちゃめちゃいい声だった。私いちばん後ろの列で観てたけどみなさんの声全然しっかり聞こえたし音量でいう強弱の弱でも届いたもん。すごいね。
特に藤井さん、一緒に観に行ってたフォロワーさんと終演後いのいちばんに言い合ったのが「「藤井さんの声がよすぎる………」」だった。グレショーの中で時々指導として歌ってらしたの見てたしYouTubeも見てたけど、本物の圧すごかった!! 歌声もいいし芝居の声もいいし普通に喋っててもよかった、めっちゃいいマイクでめっちゃいいエコーかけてるみたいな声してたけど芝居中機械一切通してないんだもんな~~とんでもねぇ~~~~。

 

 


最後に、今回、冒頭の記事きっかけ、つまりは『鬱憤』きっかけで知り合ったフォロワーさんと一緒に観に行って、衣装着せたぬい並べて写真撮ったりいろんな話が出来てめちゃくちゃ楽しくて、そんな出会いに繋げてくれた『鬱憤』に改めて感謝です。
素敵な作品をありがとうございました!!!

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語ろうぜ、なぁ〜!!!みたいな気持ちがあるのでもしよかったら何でも話しかけてください。

佐倉にマシュマロを投げる | マシュマロ

 

 


【あとがき的ななにか】

……ここまでの感想は、おおよそ9月中くらいには書き終えていました。その投稿がなぜこの10月末になったのか。イナズマやその他予定でバタバタしていたのもあるけどいちばん大きな理由は、コロナに罹ったから、です。(おそらく、にはなりますが)

上記にて、散々「過去のものになってしまった……」的なこと言っておきながら、全然現実だった!!!!!!

(ちなみに「おそらく」というのは、抗原検査キットでの陽性は出なかったため。その時期、濃厚接触者にあたる人で複数陽性者が出ていて、私自身の体調としても微熱や喉の痛み、身体のだるさがあり、のちに味覚・嗅覚の不調が出たので、タイミングと症状からしておそらくそうだっただろう、と思ってる、という話になります。)

幸いにもこれまでの3年間、家族などの身近に感染者はおらず、自分も(無症状で罹っていた可能性はあるけど)感染を疑う症状になったことはなかった。今回いざ症状が出て当事者になった時、家族や会う約束をしている友人に広げてしまうかもということをめちゃくちゃ切実に考えたし、自分もどうなるんだろうかと不安になった。特に味覚と嗅覚がなくなった時は「本当にあったんだ、コロナ」って思ったし、自分の感覚の一部を失うってめちゃくちゃ怖いことだった。それがいつまで続くかわからなくて、もしかしたら治らないかもしれない。だとしたら、こんな風に前触れなく人生変わるポイントって訪れるんだと思ったし、優弥や由梨や、『鬱憤』の登場人物たちの変化への恐怖とか不安みたいなものについて改めて思いを馳せたといいますか。(結局味覚も嗅覚も5日ほどで回復しました、よかった。)

今回の経験(?)で、彼らの不安を理解できたとは思わないけど、どこかで過去の、それも少し自分とは違う世界の物語のように感じていたものが、またグッと「自分の物語でもある」という感覚としてこの作品を捉えるようになった気がします。
私は元気になったし、今のところあからさまに後遺症的なのは出てないけど、そうでない人もいる、ということはちゃんとわかっておきたいと思う。

人間いつ死ぬかわかんないよなって普段から思ってるところはあるんだけど、同じくらい長生きしたいなーとも思ってるので、みんなもご飯食べて元気でいてください。

それではまた。